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第25話 『残夢』

1.

 

 生々しい臭気が血を這うように漂っている。
 晩秋の重く冷たい空気が死者の魂を押しつぶそうとしているかのようであった。
 崩れ落ちた鉄骨は、裂けて尖った舞台の上に突き刺さり屹立していた。
 鉄骨は、黒い巨躯の怪物を思わせる威圧感を放ちながら舞台の上を歩く男達を冷え冷えとした重苦しさで見下ろしている。
 男達は、
ゲル状に固まった血液と格闘しながら富美子の遺骸を片付けていた。

 死亡事故の調査に来た警官達である。
 若い警官の中には、富美子の惨たらしい惨状を目視できず更なる異臭を床にぶちまけるものもいる。
 ベテランの刑事は、そんな若いものに舌打ちしながら富美子の残骸を拾い集めている。
 警官達が目まぐるしく動く中、清潔な茶色いアメリカ軍のフィールドジャケットをキッチリと着込んだ若い青年が鉄骨の断面図を仕切りに眺めている。
  柔らかなブロンドの前髪が紅い眼鏡の縁の上でサラサラと揺れていた。
  背こそ高いものの軍服が似合わないヒョロリとした痩せ型でボブカットの髪型も相まって直立したえのき茸のようにも見える。
  アメリカ系の白人にしては、やや童顔でフランス人形のような青く透き通った瞳をしていた。
  やせ細った長い指先を素早く動かすとメモ帳にボールペンに鉄骨の状態を素早くスケッチした。
  流麗な線で瞬く間に鉄骨を書き終えると青年は、深々と被ったギャリソンキャップをボールペンを握った手で押さえながら首を傾げた。
 青年は、現場の陣頭指揮をしている刑事を手を振って呼び寄せた。
 骨柄の太いいかにも厳しそうな角刈りの警部が青年の元にゆっくりと近づいてきた。
「何か用ですかな、ジョージ・カールトンさん?」
 警部は、ポケットに手を突っ込みながら口元に可能な限りの笑みを浮かべながら青年に声をかけた。
 しかしながらその目は、この青年の介入に不満そうな様子がありありと見て取れた。
 この青年ジョージ・カールトンは、GHQの調査員であった。
 彼の仕事は、東京都内で発生した事件や事故が米軍への報復の疑いがあるかどうかを調べる事である。
 テング座が米兵の立ち寄る事を耳にして事故調査にやってきたのだ。
 ジョージは一瞬困り果てた顔をしたが、すぐに人なつこい子犬のような笑顔をつくると胸ポケットからラクダのパッケージのタバコを取り出し、
警部に一本差し出した。

 警部は、尻ポケットから発売されたばかりの国産タバコ『ピース』を取り出し、コイツがあるからと言い、逆にジョージの方に一本差し出した。
 ジョージは、サンキューと呟くと警部の手からタバコを受け取ると口に加えた。
  西部劇のガンマンの絵が描かれたマッチ箱を取り出しタバコに火を点ける。
 遺体の匂いでタバコの香りを感じなかった。
「この事故をどう思いますか? ミスター岩部」
「どう思うも無いですな。ただの事故ですよ。粗悪な建材を使った事によって起きた事故ですな。正直、アメリカが介入してくるような捜査じゃありませんよ」
 岩部警部は、タバコを加えたまま一気に捲し立てた。
 タバコの火が瞬く間に根元まで到達した。
 相当に鼻息が荒い。
 ジョージは、指先でボールペンを二回転させた後、ボールペンの尻で鉄骨の断面を叩いた。
 その断面は鏡のように美しく、黒々とした表面にジョージの青い瞳とやや陰りのあるブロンドの髪が映っている。
「事故で亀裂が発生して落下したと考えるにしては綺麗すぎると思いませんか?」
 その綺麗さは、老朽化や建築段階の設計ミスでは片付かない不自然さだった。
 岩部警部は、吸い口しか残っていないタバコを吐き捨てると鉄骨の断面を野太い指でなぞった。
「接着剤で付けたにしても綺麗すぎますな。偶然でしょう。偶然も時として信じられないものを作るものでしょう」
 それと同時に人為的に起こした事故と考えられない不自然さでもあった。
 ジョージには、鉄骨落下の原因がわからなかった。
 わからない事が異様に引っかかるのだ。
 首を傾げるジョージに岩部警部が苛立った語調で話しかけた。
「もうよろしいか? これは事故ですよ。正直、あなた方にご足労願う事はありませんよ」
 そう言うなり岩部警部は、二本目のピースを口に加え、陣頭指揮に戻っていった。
 ジョージはボールペンでこめかみをトントンと叩くとため息を吐いた。
 GHQの権限を利用して半ば強制的に調査の協力を促す事もできたが、そういうやり方をジョージは好まないようだ。
 ジョージは、胸ポケットにボールペンを収めるとカツカツと規則正しいリズムで座長室へ向かった。
 テング座の支配人から話を聞こうと思ったのだ。


 

2.

 座長室は、誰かが苛立ち紛れに蹴飛ばした跡が目立つ更衣室のすぐ側にあった。
 ジョージは、薄っぺらい木製のドアをはんなりと二回叩くと直立の姿勢のまま返事を待った。
「ちっ! いるから勝手に入れよ!」
 威嚇するような粗暴な声が部屋の中から聴こえてきた。
「失礼します」
 顔色を変えないまま涼しい顔でドアを開けた。
 支配人の戸塚は、威圧的な視線でドアを睨みつけていたが入ってきたのが警察じゃないと解ると態度をいくらか軟化させた。
「おやおや、アメリカさんか」
 親しみと馴れ馴れしさを勘違いした笑顔で戸塚が席を立った。
 戸塚は、タバコのヤニに染まった黄色い歯をむき出しにしながらゴツゴツとした手でジョージに握手を求める。
「初めまして、ジョージ・カールトンと言います。今回の事故の調査を担当する事になりました。今後とも宜しくお願いします」
「戸塚義助です。アメリカさんも大変ですな。日本の警察が愚図ばかりな為にこんなオンボロ芝居小屋で起きたチンケな事故まで調べなきゃならんとは」
 戸塚の言葉にジョージは、微かに眉をしかめた。
(自分の劇団に所属する踊り子が無惨に死んだにもかかわらずチンケな事故といってのけるか)
 ジョージは、人の命を命とも思っていない戸塚の発言に不快を感じた。

 座長室の中央にあるソファーへと誘った。
 ジョージは、促されるままにソファーに腰をかけ分厚いガラスのテーブルに肘を置いた。
 戸塚は、強面の顔に精一杯のへつらいの笑みを浮かべながらジョージと対面する形でソファーに腰をかけた。
「この度の事故、心中御察し致します。さぞお辛い思いをしていらっしゃる事でしょう。私どもの同僚もこの劇場でのショーを楽しみにしているようなので深い悲しみを抱いていますよ」
「いえ、こちらこそアメリカの兵隊さんにはとてもお世話になっているので、そのように言っていただけるなど恐悦の極みですよ。しかし安心してください。すぐに劇場を立て直して見せますよ」
(劇場か……私は、事故の犠牲者への哀悼の意を混めて言っているだがな)
 ジョージは、欧米人にしてはやや童顔気味の顔に穏やかな微笑みを浮かべながら戸塚の顔をジーと見つめた。
 ジョージの表情は、心と分離して機能しているようである。
 内心は、戸塚の顔にツバを吐きかけたくなるほどの不快を感じているが顔には出ない。
 胸に激しい怒りの炎を宿せば宿すほど顔がにこやかになる達なのだ。
 戸塚は、ジョージの激しい敵意に気付く事なく、穏やかな笑みに騙された。
 目の前にいる米兵を舐めてかかったのだ。
 戸塚の心中にあるのは、横暴さと卑屈さと自己保身、力なき者に行う暴力の愉悦だ。
 正真正銘のゲスであった。
 戸塚にとって重要なのは、劇場の営業停止処分を防ぐ事だ。
 アメリカへの報復などという言いがかりで閉鎖されては、堪らない。
 戸塚の様な男が権力に抗う方法は、一つしかない。
 媚びとへつらいだ。
 そしてもっともシンプルなやり方は、欲望で繋がる事だ。
 賄賂である。
 戸塚には、金よりも頼りになるモノがあった。
「しかし、アメリカさんも大変ですな。異国まで来て仕事ばかりの日々というのは……家族が恋しかったりするのでは無いですか?」
「家族と会えないのは辛い事ですが、アメリカ国民としての義務がある以上、仕方の無い事です」
「しかし、国に残した恋人の事を考えると寂しかったりするでしょう?」
「ハハハ、恋人なんていませんよ。まぁ、寂しいのは事実ですが」
「ええ、そうでしょう。寂しいに違いありません。時にジョージさん、日本の女性などはどう見えますか?」
「美しいですよね。幼い頃から日本の女性には憧れを持っていましたよ」
 戸塚の口元がいやらしく歪んだ。
 釣れた、と確信した。
「実は、そんな寂しい日々を過ごしている貴方に女性を紹介する事が出来るのですが」
「紹介ですか……」
 ジョージは、テーブルに肘を付いたまま両手を組みあごを乗せた。
 そして戸塚の目を真っ直ぐに見据えながら口の端を微かに振るわせた。
 その表情は、喜悦に満ちあふれているかのように見えた。
 戸塚は、ジョージの微笑みの正体も知らずに更なる勝利を確信していた。
「そうです。日本の女性は夫に良く尽くすと言われてますが、その尽くし方がまた素晴しいのです。ふふ、そうそう、特に夜の勤めなど!」
 戸塚は、涎を啜り込むような下品な笑みを浮かべジョージの顔を覗き込んだ。
 ジョージは笑顔で大きく頷き、胸ポケットからボールペンを取り出した。
「なるほど! すばらしい取引だ。ところでMr.戸塚。私の名前は、アルファベット以外の文字を使って書く事ができるのですが、名刺代わりに差し上げてもよろしいですか?」
 ジョージは、そう言うなりメモ帳から紙を引き千切り、サラサラと字を書いた。
 そこには、ただ二文字『譲二』と書いてあるだけだった。
「……私の母は、カリフォルニアに来た日本系移民で、父の農場を良く手伝い家族に良く尽くしていましたよ。私はそんな母を見ながら日本の女性はなんと美しく気高く優しいのだろう、と憧れを抱いていました」
 ジョージは、抑揚の無い冷ややかな声で独白し始めた。
 失敗した。
 戸塚は、青ざめた表情で下唇を噛んだ。
 ジョージを釣るどころか態度を硬化させてしまったのだ。
 ジョージは、自分の名前を書き込んだメモをテーブルに置くとスッと立ち上がった。
「今回の事故が米兵を狙った報復攻撃かどうかはわかりません。しかし、貴方がアメリカの為にならない人間である事はわかった。女性を平然と食い物にしようとする貴方の買収行為は上層部へ報告させて頂く。……営業停止処分は、免れないでしょうね」
 ジョージは、強い語気で言い放つとポケットに手を突っ込み戸塚に背を向け歩み去ろうとした。
 真鍮のドアノブに手をかけた時、戸塚が怒声を張り上げながら立ち上がった。
「おい、待てよ! 何が買収だ! パンパンガールとか言って喜んで女買ってるのは、お前らアメリカ人だろ! お前らの為に女を融通している俺に何の罪があるんだ!?」
 ジョージは、ドアノブを握りしめたまま立ち止まった。
 事実であった。
 戦勝国のアメリカは、戦争に勝つと同時に特殊慰安施設協会の設立を要求したのである。
 占領軍の暴行から女性を守る為に1300人以上の女性を政府公認の売春組織を作り上げたのだ。
 婦女暴行を売春によって防ぐという誰の目からみても矛盾している行為が当然のように占領政策として行われたのだ。
 特殊慰安施設協会のつくった施設は、次々と増え七万人近くの慰安婦を生み出している。
 そしてそういった慰安婦から金を巻き上げているのが戸塚のようなヤクザ者なのだろう。
 戸塚のようなゲスをのさばらせているのも他ならぬ占領軍なのかも知れないとジョージは思った。
 ジョージは、しばらく無言のまま虚空を眺めたあとゆっくりと口を開いた。
「もう一度言います。営業停止処分は免れないでしょう」
 ジョージは、淡々とそう言うなりドアを開き退室した。
 戸塚のわめく声が聞こえたが聞かなかった。
 祖国の抱える正義の矛盾は、混血児ゆえに痛いほど解っているが、一調査員にしか過ぎないジョージにはどうにも出来ない問題なのだ。
 ジョージに出来る事は、正義という名の美名に盲信するか……
 あるいは、矛盾の根幹たる悪徳を必要悪と割り切り飲み込む事だ。
 だがジョージは、そのどちらも選べなかった。
 ただ出来る事は、劇場を差し押さえ営業を止める事だ。
 事故の調査の為と言えば簡単に通る事だ。
 それで戸塚のような男から女性を守れるならそれでいい。
 ジョージは、苛立つ気持ちを無表情の中に押し込みながらタバコを口にくわえ雑然とした廊下を歩み去って言った。

 一方、戸塚は、ジョージの足音が消えた事を確認すると黄色いヤニ歯をむき出しにしてガラスのテーブルを苛立ちそのままに蹴り飛ばした。
 劇場の上がりは、この地域のシマを牛耳っている組に上納金として送る事になっていた。
 上納金を支払えない事は、戸塚にとって死活問題であった。
 文字通り、命に関わる事だ。
 戸塚は、舞台に代わる稼ぎを得なければならなかった。
 戸塚にとって、もっとも手っ取り早い商売は売春だった。
 売春はヤクザ同士の縄張り争いが激しく、下手は踏めないがそれをやらなければ戸塚の身の破滅は確実である。
「劇場が運営できねぇなら、踊り子どもを街頭に立たせるしかねぇな」
 戸塚は、そう言い放つと床の上にツバを吐き飛ばした。
 踊り子の生活や飯の金は、戸塚が支払っている。
 それを理由に脅しをかければ踊り子を無理矢理に娼婦に仕立てる事もできる。
 誰もヤクザは、怖いのだ。


3.


 夕刻である。
 といっても空の大半は、重く黒い群青色に覆われオリオンの頭が地平線一杯に広がる赤い線の上にひょっこりと現れている。
 川縁の恐ろしく冷たい風が浅草の路地を吹き抜ける。
 道行く人は、薄い布地の服を寄せ集め体を窄め足早に歩いている。
 バラックの屋台の裸電球が一斉に点灯し、どこかヤボな闇市もにわかに華やかな装いが彩られる。
 飲食店のラジオは、それぞれ好き勝手な局の放送を垂れ流している。
 その中でも得に聴こえてくるのは、アメリカ軍向けに放送されたジャズの曲だった。
 明るく甘いスイングが響き渡る中、不機嫌そうに蕎麦を啜る音が聞こえる。
「冗談じゃねぇって! あんな酷いショーは、早々ねぇぜ!」
 小さな蕎麦屋の屋台でお嬢は、テング座の批判を延々と続けていた。
 蕎麦を一口啜り込んでは、踊り子の振り付けの酷さを捲し立てカウンターをドンと荒々しく拳骨を振り下ろした。
 蕎麦屋のカウンターは、積み上げたビールケースの上に薄い板ベリを引いただけの粗末な代物だったのでお嬢の拳がカウンターにぶつかるたびにどんぶりの汁がピチャピチャと溢れた。
 カエルは、お椀の中の汁が極力こぼれないように両手で押さえながら無言で蕎麦を啜っている。
 仏像は、お嬢以上に不満そうな顔でカウンターの上に頬杖を付きながら空になったお椀を指でツンツンと弾いている。
「何だよ、文句ばっか言って。自分が行こうって連れ出しといて勝手にお開きにしちゃってさ。お金の無駄だったよ」
「あぁ、金の無駄だったな。足を振り上げていりゃ男が喜ぶと思っている最低のショーだ」
 お嬢は、箸の先端を仏像に向けフンと鼻を鳴らした。
「オレは、続き見たかったんだけどね……」
 仏像は、未練がましい目でお嬢を睨んだ。
「あぁ、そうかい。お前は最低のスケベだよ」
「何だよ、スケベはお嬢だろ! いつもオレ達に変なもの持ってくるくせに!」
「鼻の下伸ばして喜んでのはお前だ! お釈迦様みたいな顔してる癖にニヤニヤしやがって! この煩悩下半身!」
 お嬢と仏像の間にギスギスとした刺々しい雰囲気が立ちこめた。
 カエルは、無言のままお椀を持ち上げ中の汁を啜った。
 啜り終わると同時に空っぽのお椀に箸を乗せてカウンターの上に置く。
 カエルは、ゴツゴツとした指先で自身の腹部を撫でお嬢に視線を向けた。

 お嬢と仏像は、しばらく口論をしていたが時間が立つに連れて口数が減り、ついにはお嬢が仏像の胸ぐらを掴み上げるほどの喧嘩に発展した。
 胸ぐらを掴まれた仏像は、目を泳がせながら細々と不満を口から小声で漏らしている。
(八つ当たりか、みっともないな)
 カエルはそう思いながら太い人差し指で角張ったアゴをソロリと撫でた。
 さて、どうしたものか……
 カエルは、考えた。
 苛ついて攻撃的になっているお嬢に正面から注意しても反って疎外感を呷って火に油を注ぐ形になるのは明白だった。
 いっその事、仏像には一発ぐらい殴られてもらうか。
 そうすればお嬢の鬱屈した気分もいくらか発散してなだめやすくなるのかもしれないが、それだと何もしていない仏像が可哀想だ。
 (しょうがねぇ、一端、話そらすか)
 カエルは、お椀の上に乗せた箸を右手で掴むとお嬢の肩を左手で軽く叩いた。
「あぁ!」
 案の定、お嬢は邪魔するんじゃねぇと言う表情でカエルを睨みつけた。
 カエルは、横目でチラリとカウンターを見た。
「どうでもいいけどよ。蕎麦食わないなら貰ってもいいか?」
 お嬢は、一瞬呆気に取られた表情で蕎麦を見た後、チッと舌打ちをした。
「食うなよ、ちゃんと後で食うよ」
「伸びるぞ。やっぱり勿体ないからくれよ」
 カエルは、箸の先でお嬢のお椀の淵を軽く突ついた。
 屋台に入ってからほとんどの時間をテング座の悪評に費やしていたお嬢の蕎麦は他の二人に比べて明らかに麺の減りが少なかった。
 その為、すでに麺が結構な量の汁を吸い込んでトロミが付き始めている。
「馬鹿野郎! 図々しいんだよ!」
 お嬢は、嫌な顔をしながら仏像の胸ぐらから手を離しお椀を掴み一気に蕎麦を啜り始めた。
 食料不足の時代である。
 食べ盛りの少年の食べ物への執念は、現代の非ではない。
 仲間内から食わせろと言われて「はい、どうぞ」など言えるわけがない。

 カエルは一心不乱に蕎麦を啜り始めたお嬢にむけて安堵の笑みを浮かべると仏像に向かって追い払うような手振りをした。
 今のうちに帰れと合図をしているのだ。
 胸ぐらを掴まれた仏像をムスッとした顔で蕎麦をすするお嬢を見下ろしている。
 カエルは、お嬢に見えないように小さく体を動かし仏像に向かって左手を持ち上げ力こぶを作って見せた。
 いいから、俺に任しておけ!
 カエルは、ごん太い眉毛をキリっとつり上げて笑ってみせた。
 仏像は、尚もムッとしていたがお嬢と喧嘩しても勝ち目が無いのでカエルに全てを任せる事にした。
 燕尾服のズボンに手を突っ込み足早に屋台から去っていった。
 お嬢は、それに気付いて仏像を力づくで引き止めようとしたがカエルが横から蕎麦を箸でかすめようとするので諦めざるを得なかった。
 もっともカエルがいくら箸で掠めようにもスッカリと蕩けきった蕎麦を摘む事など出来なかっただろう。
 お嬢は、面倒くさげに箸を置くとどんぶりを両手で掴み、流動食と化した蕎麦をズルズルと飲み込んだ。
 カエルは、半ばヤケクソにどんぶりを啜るお嬢の顔をにこやかに見つめたあと、コップに入った水をクイッと飲み干した。
「それにしてもあの踊り子は良かったな」
 カエルは、空のコップをカウンターに静かに置いてボソリと呟いた。
 そして手のひらを虚空に掲げるとゆったりとした動作で円を描くように動かした。
 カエルの筋骨隆々とした腕が蕎麦を必死で啜り込むお嬢の小脇でバタバタと小虫のように舞う。
「何のつもりだカエル。お前のその空手もどきは鬱陶しくて仕方ねぇんだけどよ」
 お嬢は、ようやく空になったどんぶりをカウンターに置くと咽せ気味な声でカエルに悪態をついた。
「何って今日、最後に見た踊り子の手の所作だけど」
 カエルは、すっとんきょんな顔で目を見開きお嬢の目の前で手のひらをバタバタとさせた。
 その動きは、死にかけのカナブンのようにしか見えなかった。
「あれは、本当に綺麗だったと思うよ」
「綺麗ねぇ……お前のその手のさばき方見る限り良かったように見えねぇわ」
「そうか、結構上手く踊れてる気がするんだけどな」
 カエルは、大げさに首を傾げるとより大きな動作で両手をくねらせた。
 その動きは、カエルの風体もあって酔っぱらいの盆踊りにしかなっていないのだが、カエル当人は意外とご満悦そうにしている。
 お嬢は、袖の先で口元についた汁を拭いながらカエルを冷ややかな目で見つめていたがカエルの踊りの出来があまりにも酷いので横から口を出し始めた。
「なってねぇぜ。そんなんじゃなかっただろ。いいか、見てろ」
 お嬢は、男にしてはやや白い指先を伸ばすとカエルの前でゆっくりと手を動かし始めた。
 白い手のひらが白鷺のように優雅に軽やかに虚空を舞った。
 艶やかに舞う手のひらは、僅かな動きの変化一つで蝶になり淑やかな白百合の花にもなった。
 カエルは、お嬢の手の返しの美しさに関心し思わず拍手をした。
 お嬢は、気恥ずかしげに舌打ちすると軽やかに舞っていた手のひらをカエルの額に勢い良く打ち落とした。
 カエルは、ほんのりと赤くなった額を痒そうにポリポリと掻きながらお嬢ににこやかな笑顔を向けた。
「さすがだな」
「別にあの程度、褒められるほどのこっちゃねぇよ」
「いやいや、実際良く見てたじゃねえか。最後の踊り子のダンス」
「……」
 お嬢の目が一瞬にして険しくなった。
 カエルは、そんなお嬢の様子をあえて無視して喜楽な世間話でもするかのように話を続けた。
「あの子、途中で出ちまったから印象残ってないと思ったけどな」
「見てねぇよ」
「そうか? 初めて見たのに手の返しとかわかってたじゃねぇか。何か昔から知ってたみたいに完璧だ」
 最後まで言い終わるより先にお嬢の手がカエルの胸ぐらを掴んだ。
 お嬢は、目を逆三角形に尖らせ下唇を噛みながらカエルを睨みつけた。
 カエルは、全く動じた様子も無くそのまま言葉を続けた。
「もしかしてあの踊り子と知りあ……」
 カエルが言い終わる前に左アゴに鈍い衝撃が走った。
 怒りに身を任せたまま放たれたお嬢の右フックが炸裂したのだ。
 カエルの角張った身体が屋台の椅子もろとも地面に転がり落ちる。
「余計な詮索かましてんじゃねぇよ!」
 お嬢は、拳を振るわしながら地べたに仰向けに倒れたカエルを見下ろす。

 カエルは、フーと鼻から大きな息を吐きながらのっそりと上半身を起こした。
 殴られた場所がチクチクと痛むがどうという事はなかった。
 普段は不格好な顔の形を少なからず気にしているが殴られた時だけは頑丈にできた骨格に感謝する他無い。
 カエルは、全く痛く無さそうにアゴをひと撫ですると再び話を続けた。
「あの時、さとちゃんってお前言ったよな? 誰だ?」
「てめぇには、関係無いだろうが!」
 お嬢の握りこぶしが黙れと言わんばかりに更に固くなった。
 カエルは、大げさに肩を竦めると勢い良く起き上がった。
「あぁ、お前の知り合いなんて俺には関係ない事だ。ただオレはお前がちょっと羨ましかったんだよ」
「うらやましい? 俺の気も知らねぇくせに! ふざけてんのか!」
「ふざけてねぇよ。まぁ、知り合いがあんなショーに出てて落ち込むのはわかるけどよ。あの空襲のあと、知り合いと出会うってのがどれだけ幸運だと思ってるんだ、お前」
 カエルは、背中に付いた砂埃を手で払い落としながら寂しげに目を伏せた。
 お嬢は、バツが悪そうに目を反らすと呻くように声を漏らす。
「……幸運とか言うんじゃねぇよ。お前は、オレにどうしろって言うんだよ」
「俺は、お前にどうしろなんて言わねぇよ。お前の好きにすりゃいいんじゃねぇのか」
「偉そうに説教垂れようとしてそれか! まるで他人事だな!」
「他人事だよ。赤の他人なんだよオレは。その俺が見ず知らずのお前の知り合いに何が出来ると思っているんだ。これはお前の問題」
「知った事かよ!」
「それじゃあ、会わなけりゃ良かったと後悔しながら明日も明後日もいつもと変わらぬ毎日を過ごすしかないな」
 カエルの辛辣な言葉にお嬢は、カッとなった。
 怒りに満ちた目には、寂しげなカエルの顔が映っている。
「後悔なんかしねぇよ! するのはいらねぇ事ばかり話すお前だ!」
 お嬢は、脇を締め拳を構えると小刻みにステップを踏み始めた。
「後悔しないか。まぁ、お前の問題だからこれ以上何も言わない。俺がつき合えるのはお前のみっともない八つ当たりぐらいだからな」
「うるせぇ!」
 お嬢は、荒々しく物悲しく吠えるとカエルに飛びかかった。
 その瞳には、こぼれ落ちこそしないものの涙の雫がうっすらと堪っていた。
 お嬢は、自身の悲しみや寂しさや空しさと言ったやり場の無い感情を荒れるという方法でしか表現できなかった。
 お嬢の右拳がカエルのアゴ目掛けて勢いよく伸びた。
 一時の感情をやり過ごすためだけの空しい一撃がカエルのアゴを突き上げる筈だった。
 しかし、地面にはり倒されたのは、お嬢だった。
 お嬢の腕が伸びると同時にカエルの足が思い切り地面を蹴った。
 殴り倒す筈のカエルの頭が凄まじい勢いでお嬢の鼻っ柱に突っ込んだのだ。
 カエルは、自身の額を撫でながらお嬢を見下ろすと大きく息を吐いた。
「八つ当たりぐらいならつき合えるって言っただろ」
 お嬢は、鼻を押さえ踞った。
 言いようの無い惨めさに泣きそうになった。
 みっともないのは、わかっていた。
 だがそれを認めようとしなかった。
 お嬢の心情は、割れたガラスのように鋭く脆い。
 やさぐれた気持ちを覆い隠すには、殊更に無頼を装う他無く強い男をひたすら演じる事で自分を騙すしかないのだ。
「だったらつき合ってもらおうじゃねぇか!」
 お嬢は、再び吠えた。
 言われなくともつき合うつもりだ。
 カエルは、そう思った。
 自分の気持ちに素直になれないと言う意味においてお嬢は正真正銘の馬鹿野郎だった。
 馬鹿野郎にヘタな慰めや説教じみた理屈は通用しない。
 馬鹿野郎の馬鹿につき合うしかないのだ。
 お嬢の馬鹿に真っ向からつき合ってやれるのは自分しかいないだろう。
 浮浪法師の面々の顔を思い浮かべながらカエルは、苦笑した。
 半ば面倒見が良すぎると要らない苦労を背負い込む。
 困った性格だなと思うがカエル自身、そういう自分が嫌いじゃない。
 お嬢の鬱屈した思いが吐き出されるまでやり合うつもりだった。
 カエルがお嬢を迎え撃とうと腰を落とした瞬間、邪魔が入った。
 カエルの頭上を飛び抜けて白い何かが飛んで来た。
 それは、お嬢の額目掛けて急降下するとパサっとふんわりとした音を立てて地面に落ちた。
 紙飛行機だった。
「ちっ!こんな時に化け物退治かよ!」
 お嬢は、チッと舌打ちすると苛立たしげに右拳を左手に打ち合わせた。
 紙飛行機は、怨霊が出現した際の招集の合図になっていた。
 狩野の法術で操られた紙飛行機は、浮浪法師達がどこにいようと必ず見つけ出しメッセージを届けるのだ。
「命拾いしたな」
 お嬢は、カエルにそう吐き捨てると地面に落ちた紙飛行機を拾い上げた。
 カエルは、お嬢の言葉を軽く聞き流すと両腕を組み小さく肩を竦めた。
 お嬢は、荒らしく紙飛行機を広げる。
『浅草 怨霊現ル 吾妻橋集合』
 と簡潔に指示が書かれていた。
「浅草? 近いな」
 カエルは、両腕を組みながら文章を覗きこんだ。
「勝手に覗いてんじゃねぇよ」
 お嬢は、紙飛行機をクシャクシャに丸めて足下に落とすと苛立たしげに蹴りあげた。
 砂埃に塗れた紙飛行機は、そのまま風に流され人ごみの中に消えた。
「ちょうど暴れたかったところだ。くそったれ怨霊なんざ軽くひねって叩き潰してやる」
「おい、八つ当たりで怨霊と戦うつもりか?」
「てめぇには関係ないだろう。馬鹿にしてんのか?」
「心配してるだけだろうが」
「心配なんざいらねぇよ。心配するなら俺が怨霊をぶっ倒して帰った後の事にしな。徹底的にやってやるからよ」 

 お嬢は、カエルの顔を挑発的に指差しながら路地に向かって歩き出した。

カエルはいきり立ちながら戦いに向かうお嬢の背に向けて声をかける。
「気をつけろよ」
「気を付けるまでもねぇ。怨霊なんざ一撃でたこ殴りだ」
 お嬢はカエルに振り向く素振りもみせず、怒鳴りながら人ごみの中に消えた。
 一人になったカエルをボリボリと頭を描きながら小さく呟く。
「たこ殴りって一撃じゃねぇだろ」
 全くもって冷静じゃないお嬢の様子にカエルは、一抹の不安を覚えた。
 心がかき乱れたまま怨霊と戦って無事でいられるのだろうか?
 自分に何が出来るのだろう。
 何もできない。
 何もできないが自分が何か力にならなければいけない気がした。
 お嬢とあの踊り子の再会は、不幸の始まりじゃなくて幸運の証だと信じたい。
 青臭いかも知れないが生きている人間は、それだけで幸せになる権利があるとカエルは、信じている。
 だからお嬢の力になる。
 カエルは、そう決意した。
 決意と同時に大きくため息を吐いた。
 自分は、何でこうも余計なおせっかいをするのだろう。
 考えてみた。
 カエルの脳裏に真夏の日差しとグラウンドが浮かび上がった。
 白球を打つ心地よいバットの音と親しかった坊主頭の学友の顔が走馬灯のように甦った。
 だからか……
(俺は、あいつらと野球が出来ない。でも、お嬢は……)
 カエルの心の声は、そこで詰まった。
 その代わりにカエルの大きな目から暖かいものがこぼれ落ちた。
 とりあえず、今カエルに出来る事はお嬢の無事を祈る事ぐらいしかなかった。

4.


 里子は、沈鬱な表情で俯きながら路地を歩いていた。
 富美子の亡くなった事故で劇場が閉鎖される事が告げられた。
 それは、更なる地獄の始まりであった。
 戸塚から街頭に立って春をひさぐように言われた。
 断りようが無かった。
 戸塚が支払っていた踊り子の生活費は、多額であった。
 物価が高騰し食べ物が無い時代である。
 踊り子を養う費用が予想以上なのは想像にかたくない。
 その費用を返せと言われても返す宛てもない。
 もっとも返せと言われた諸費用は、過剰な利息が付いており全うな額ではなかった。
 里子は、その戸塚の提示した額に疑問を抱いたが、口に挟めば容赦のない暴力が振るわれるだけなので押し黙るしかなかった。
 幾度か自殺しようと考えた事もあった。
 その度に楽しかった大正座の思い出が甦った。
 もう一度、あの頃のように舞台に立ちたい。
 過去を思い返す度に胸の奥が暖かくなり生の渇望が生まれた。
 そうやって里子は、何度も死の誘惑を振り切ってきた。
 だが今回は、その思い出も寒々しく感じた。
 かつての仲間の山奈秋吉に自身のもっとも軽蔑すべき姿を見られたのだ。
 もう昔のように笑顔で舞台に立てまい。
 その上、これから自分は、言いようも無い程に穢れた世界に堕ちるのだ。
 里子の子鹿のような瞳は、空虚に雑踏にぎわう闇市を映していた。
 涙などとっくに乾ききっていた。
 感情の全て鉛のように重苦しい苦しみに押しつぶされ悲鳴をあげている。

 そんな里子に声をかける者がいた。
「もしもし、お姉さん」
 里子は、虚ろな表情で声のする方へ振り向く。
 闇市の片隅で小さな御座の上にチョコンと可愛らしく白い着物を着た女の子が座っていた。
 女の子は、おかっぱの日本人形を抱えている。
 黒く艶やかな髪が印象的で細く清らかな足首に絡み付くほどに長かった。
 淡雪を思わせる白い肌に鮮やかな朱色の唇が映えた。
「また会えるなんて、何か縁があるんでしょうかね?」
 女の子は、今に折れそうな細い小首を傾け小さく微笑んだ。
 女の子の吸い込まれるような黒い瞳が里子の青く沈んだ顔を覗き込んでいる。
 深く優しく包み込むような眼差しであった。
 里子は、自分でも気付かないうちに女の子の引き寄せられ女の子の前に座り込んでいた。
「お姉さんの目、悲しいね……辛い事があったの?」
 女の子は、傷つき今にも倒れてしまいそうな里子に優しく声をかけた。
 不思議と涙がでた。
 幼少の頃、温かな背中の上で聴いた母の声に恐ろしく似ていたのだ。
「大丈夫だよ、お姉さん。辛くても傷ついてもいつかその苦しみが晴れる日がくるから」
 赤ん坊をあやすように……
 泣く子をなぐさめるように……
 女の子の小さな手は、里子の頬を撫でていた。
「安心して。その苦しみは、無駄じゃないから」
 女の子は、震える里子の頭を胸に抱きしめながら背中を撫でた。
 里子は、女の子の胸に顔を預けたまま嗚咽を繰り返していた。
 女の子の仄かな温もりは、里子の傷つき凍り付いた心の隙間にゆっくりと染み込んでゆく。
「大丈夫。わたしのお守りが貴方を苦しめるものから守ってくれる」
「私を守ってくれる……」
 里子は、バッグから赤い縮緬のお守り袋を取り出しギュッと握りしめる。
 女の子の白い指先がお守り袋を握りしめる里子の指をそっと撫でた。
「そう、守ってくれる……」
 女の子は、愛らしく微笑むと里子の指から手を離した。
 おかっぱの女の子の人形を大事そうに抱きかかえるとゆっくりと立ち上がった。
「もう、いかなきゃ」

 里子は、すがるような目で女の子の黒い瞳を見つめた。
 戦後、一度として里子に優しい声をかけてくれる者はいなかった。
 この小さな女の子だけが里子に優しく話しかけてくれたのだ。
 寂しくて居たたまれない気持ちを唯一、理解し励ましてくれたのだ。
 だから少しの時間でも長く女の子と話をしていたかったのだ。
 女の子は、迷子の子犬を撫でるかの様に里子の頭を撫でた。
 また会えるよと言っているかのようである。
 それでも里子は不安だった。
 せめて名前だけでも教えて欲しかった。
 そんな里子の気持ちに気付いたのか女の子は、ゆっくりと小さな唇を動かした。
 里子の唇が女の子の唇と同調するようにゆっくりと動いた。
「…キ……リ……コ……」
 里子は、小さな声でそう呟いた。
 呟くと同時に我に帰った。
 里子は、闇市の雑踏の中で一人たたずんでいた。
 路地の小汚い板ベリの壁をぼんやりと見つめながらただ一人突っ立っていた。
 里子は、女の子の声を探そうと雑踏の中に耳を傾けたが聞こえるのは、酔っぱらいの笑い声ぐらいであった。
 夢でもみていたのだろうか?
 里子は、首を傾げた。
 だが夢では、ない。
 里子の手の中には、赤い縮緬に入ったお守り袋が握られていたのだ。
 そしてまだ指先に女の子の温かな温もりが残っている。
「大丈夫、キリコさんのお守りが私を守ってくれる……」
 そう、キリコのお守りは、自分を苦しめるものから自分を救ってくれるのだ。
 里子は、そう思いお守りを強く握りしめた。
 自分を苦しめるもの……
 それを思い返すだけで里子の心は、深い絶望の淵へと突き落とされる。
 里子は、苦しげな表情で更にお守りを握りしめた。
 お守り袋は、里子の手のぬくみで柔らかな熱を帯び始めている。
 それは、里子の胸の内で燃える暗く重たい情念を吸い取っているかのようであった。

 

 

第26話『黒髪』へ続く
 

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